Itsukushima Perry

The history of the classical guitar scene in the Kyushu area九州エリアのクラシックギター界の歴史


九州圏 年表

1933年1月14日 門司ギター研究会第2回試演会 赤松(小越)達也・田中春次(門司市)
1933年4月15日 門司ギター研究会第5回試演会 赤松(小越)達也・田中春次(門司市)
1936年10月17日 佐世保マンドリーノ合奏団 第2回大演奏会 市公会堂(佐世保市)
1936年11月29日 長崎アニママンドリン合奏団 第8回演奏会 指揮:高原勉
1936年11月29日 赤坂マンドリン・ソサエティ 秋季第2回定期演奏会[九軌ホール(小倉市砂津)] 指揮:坂場信夫
1939年10月19日 葉港ギター研究会 第2回 佐世保商工会議所
藤島富雪・鈴木達雄・岩永恒男・内林秀雄・古川清
1940年8月13日 「西日本ギター聯盟の結成」小演奏会[深川倣正氏を迎えて](下関支部・門司支部・小倉支部)
湯崎敬二・宮原信昌・渡辺憲孝・深川倣正氏(神戸)
1940年8月17日 佐世保  深川倣正氏(神戸)
1947年10月25日 横尾幸弘独奏会(日田市)
1948年1月25日 小原安正独奏会(福岡県古川礦業所)
1948年1月28日 小原安正独奏会(福岡市)
1948年3月28日 福岡ギタラ研究会第1回公演[開催:岩橋正和]
[末原重信・吉岡睦子・吉田貞夫・岡本太郎・小原安正][福岡商工会議所講堂]
1948年12月14日 福岡ギタラ研究会・福岡マンドール第1回公演 のうちギター独奏等7曲(福岡市西南学院講堂)
1949年4月3日 小原安正独奏会(小倉市)
1950年9月5日 長崎市ギター音楽同好会[馬場秀四郎(長崎市)・大坪氏(小倉市)]演奏会
1951年4月29日 佐世保ギター同好会第1回演奏会(佐世保市公会堂ホール)
1951年11月24日 馬場秀四郎独奏発表会(長崎市)
1951年12月1日 平嶋ギター研究会第2回発表演奏会(宮崎県図書館文化ホール)
1951年12月9日 第3回 ギターコンクール
第1位:京本輔矩(東京 Y.W.C.A.講堂(明大前)
主催:現代日本ギター連盟、ギタルラ社、東京中日新聞
1952年1月12日 馬場秀四郎ほか研究発表会(長崎市)
1952年3月7日 京本輔矩ギター独奏会 賛助 横尾幸弘 (安川電気製作所第二食堂)
1952年6月6日-6月25日 小原安正九州方面演奏会 賛助:遠藤房喜
(小倉市、福岡市、佐世保市、長崎市、宮崎市、中津市、その他各地)
1952年11月9日 九州地方部ギタリスト合同大演奏会 東京より亀山寿天子出演(福岡市ザビエル記念館)
1953年3月21日 長崎ギター音楽愛好家演奏(長崎市親和銀行ホール)
1953年5月13日-5月29日 小原安正ギター演奏会 賛助:高崎了亮(福岡市、大分市、佐世保市、鳥栖)
1955年10月16日 第1回 九州ギターコンクール
 於 教育会館(福岡市)
1955年10月16日 九州ギター音楽同好会 第2回定期演奏会 於 福岡市教育会館
三重野努・藤井利生・今井政久・岩橋正和・岡田順介・西野博
1955年10月22日 岡田順介(福岡)第7回演奏会 福岡市教育会館
田丸和彦・星野隼人・関尾徳造・高田信明・岡田順介
1956年1月2日 大分県ギター同好会発表会 於 大分鉄道保険指導所
大塚公・藤井利生・三重野努・麻生律男(顧問)
1956年4月8日 第1回新進ギタリスト演奏会 福岡市新天会館 [関尾徳造・星野隼人・高田信明]
1956年7月30日 西条通孝ギター独奏会 (八幡市)
1956年10月7日 第2回 九州ギターコンクール(ギターの友社杯)
 於 大牟田市民会館
1957年5月19日 九州ギター音楽同好会大会 於 博多
1957年6月29日 熊本ギター研究所演奏会
[山内秀一郎・中川尊雄・川添広軒・塩山妙子・藤井淳一・黒田康子・麻生律男・金城賢太郎・鍬崎猛志・田尻保輝・小川潤子・木村茂信・田辺進・西野博]
1957年8月22日 溝淵浩五郎独奏会(宮埼)賛助出演:木下恒雄・前川正道・酒匂 醇
1957年10月6日 第3回 九州ギターコンクール
於 福岡電気ホール
1958年4月12日 ヘスス・ゴンザレス・モヒーノ公演 (福岡市)
1958年4月23日 ヘスス・ゴンザレス・モヒーノ公演 (長崎市)
1958年10月5日 第4回 九州ギターコンクール
( 於 福岡市中央公民館)
1958年10月26日 大分県ギター同好会発表会[菊入亮吉・大津多鶴子・稲田譲四郎・藤井利生・麻生律男]
1958年11月17日 西野博門下演奏会(熊本)
1959年5月26日 アンドレス・セゴビア独奏会(福岡市)
1959年10月4日 第5回九州ギターコンクール
(主催:九州ギター音楽協会、後援:日本ギター教授者協会)於 福岡市電気ホール
1959年11月15日 クラシックギター演奏会
(大分市)
簑部源治・菊入亮吉・滝山俊彦・他 [特別出演:西野博・麻生律夫]
1960年10月26日 大分ギター音楽同好会演奏会
(大分市)
麻生律男・藤井利生・滝山俊彦・菊入亮吉・他 [特別出演:西野博・麻生律夫]
1960年11月28日 西條通孝独奏会 (ギター音楽鑑賞会11月例会)(東京)
1961年4月7日 『九州ギター音楽協会』創立10周年記念演奏会 於 福岡市国立ファミリーセンター
高田誠一・藤 宗介・吉沢信夫・栗本純江・山本信治・松藤正身・西条通孝
1961年6月16日 京本輔矩独奏会 日立ファミリーセンター(福岡市)
1961年6月17日 京本輔矩独奏会 県立図書館ホール(熊本市)
1963年4月30日 ナルシソ・イエペス リサイタル 於 電気ホール(福岡市)
1963年6月16日 京本輔矩独奏会  於 日立ファミリーセンター(福岡市)
1963年6月17日 京本輔矩独奏会  於 県立図書館ホール(熊本市)
1967年11月12日 第13回 九州ギターコンクール 
主催:九州ギター音楽協会 於 鹿児島
審査員:岩橋正和・橋本慶一・西野博・上村澄春・大島俊治・松本憲一・坂本八千代
1968年9月25日 ジョン・ウィリアムズ ギター演奏会 於 福岡明治生命会館(福岡市)
1968年9月30日 西条通孝ギターリサイタル 於 県医師会館(鹿児島)
1968年11月23日 第14回 九州ギターコンクール 
主催:九州ギター音楽協会 於 鹿児島
審査員:橋口慶一・西野博・田中義人・山口昌雄・松本憲一・西条通孝・坂本八千代。
1968年11月30日 南日本ギターの祭典  鹿児島県医師会館
1968年4月??日 ナルシソ・イエペス ギター独奏会 (鹿児島)
1969年11月16日 第15回 九州ギターコンクール 
主催:九州ギター音楽協会 於 北九州八幡区八幡製鉄労働会館
審査員:小船幸次郎・岩橋正和・西野 博・坂本八千代。
1969年12月2日 西条通孝ギターリサイタル 於 毎日会館(小倉市)
1969年12月10日 九州ヤマハギターコンクール(第1回)
主催:ヤマハ九州 於 明治生命ホール(福岡市)
1984年11月9日 ナルシソ・イエペス ギター演奏会 市民文化会館大ホール(鳥栖市)


『ギターと私の生活(2)』岩橋正和 [19??-??]
昭和6年[*1931年]に私は現在の家内と結婚した。そして生業の盛栄を期して堅実な実績を築く情熱と表裏一体の理念でギターを愛し続けた。
これ迄の開業の場所を分院にして本院を筑紫の大宰府に移した。
時に昭和7年[*1932年]と記憶する。
分院主任にはさきにカタニヤのギターを譲った後輩のギターリスト、菅 静正君に来て貰った。彼もギター狂で、私を追い抜いて上手になって居た。
その少し以前から取り寄せて愛読して居た仙台の沢ロ忠左衛門氏の主宰する「アルモ二ア誌の同じ誌友として九州門司市に赤松達也 [19??-??]と云う人がギター教授をしている事を発表会のプログラム掲載によって知つた。
私の心は燃え上った。門下生の演奏曲目から赤松氏のそれまで、物凄く高級なもので本格的な香りのするものばかりであった。
早速書面を送って面会を申込んだ。
折返し先方から快諾の速答が来て、寒い雪の日の土曜日の夕刻門司市に着いた。
丸山町の高台で関門港を一望に見渡せる、夏ならば絶好の涼み台と云った、風の強く当る場所にお住いがあった。
7、8人のお弟子さんも見えているらしく、玄関にはその数だけの下駄や靴等が並んで居た。

出て来られた赤松氏は並はずれて背丈けの高い外人の様な風貌の貴公子然としたハンサムであった。
5尺8寸5分以上と思われる偉丈夫で、自然に備わる智的な圧力を感じた。
初対面の挨拶を終えると取巻かれた門下生の前で、私は破れかぶれの斗志を燃して抵抗意識をかき立てた。
赤松氏から穏やかな声で「何かお弾き下さいませんか」と要求された。
楽器は持って居なかったが、自分なりの練習量と覚悟は出来て居たので、差出された楽器(確かエンベルガーであった)を持って多年手馴れた我流奏法そのままでいきなり、ソルのテーマバリエを一息に終りまで奏いたのである。
皆の顔を伺うと、とても珍らしそうでほほ笑んでるので気をよくしてガルシャ編のグラナドス舞曲五番や、武井氏の曲を奏いて挨拶代りとして楽器を返した。
まるで他流試合の気分で古武士の様な心境に私だけは追込まれて居た様だ。
この私自身の技術の披露に対して満場の拍手を送られてほっとした時、赤松氏が床の間のケースから取り出されたものは、私の所持するものと同じラコートモデルであった。

彼の最初のタッチを見た時、私 はこれは出来ると直感した。
その自信と慎重さに溢れた様子は只事ではなかった。静かに演奏され始めた曲は中野ニ郎氏作品の巡礼の唄であった。
もう私はこの人の前で奏く気力を根こそぎ失っていた。
感服し乍ら聴き入り、考えて居た事は、よい達人に会う事が出来てよかったと思う向学心だけであった。
幾つかの名演の後、リヨベットのカタロニア民謡が弾き出されて陶然となった。
最後は同じリョベットのプラニーだった。 かくも淀みなく弾きこなせるギターリストを、30年後の今日でも数多くは接して居ないのみならず、その頃赤松氏は身につける可き技術は、殆んどマスターしていた事を証言して憚らない。
現在生きて居られたら、或はいち早く世界的ギタリストとして、日本の誇りでさえあったかも知れない。

この事は恩師であった中野ニ郎先生が誰よりも一番よく知っている筈である。
全くスチール絃の音とは思われぬ円い豊かな音色で、音楽的に演奏されたのである。
その夜は12時過ぎまで円坐のままお互いのギター歴などで話がはずみ門下生の方も遅く帰られた。
私達2人は百年の知己の様にお互の眼差は和み輝き、時の経つのも忘れて語り明かした。
三枚一組だったリョベット協会の出した名盤の白レベルの十吋のレコードを手廻しのボータブルで聴き乍ら、二人は泣いて居た。
あの白々と夜の明け出した寒い部屋で真赤な眼をしてギター音楽礼讚の論議に花を咲かせた想出は、ギター狂には共通した経験ではあろうが、私の場合も生涯の忘られぬ感激であった。

赤松氏は私より四才若かったが、ギターは無限に年上の大先輩であった。
丁度数日前から奥様が所用で広島の三原町の里に帰られて、一人ボッチだった。
夜明けに彼は風呂を沸かして二人でぬくぬくと温まっ允。寝ないまま手造りの味噌汁と関門名産の雲舟で、朝食を頂いた。
あの友情に満ち満ちた情景は、今は故人となられているだけに、尽きせぬ名残りに胸が痛む想いである。
師中野ニ郎先生の御薫陶の程が忍ばれる稀に見る好もしき人柄であった。
これを契機として二人の交友が繁々と始まり、太宰府の拙宅に毎月一週間位は滞在されてギタ—を聞かして頂いた事は、私にとりギターのみならず音楽の見聞を広める上にとても有益であった。

このころであったか,秋田県に加賀屋憲一と云うギターリストが仲々良心的な演奏会を開いて、斯界の啓蒙に大いに寄与している様子をアルモ二ア誌上で拝見していた。
いうなればギター界の硬骨漢で「武井守成氏に対して物申す」と云った風の筋金の通った反論を誌上に投稿していた。

同じ頃横浜だったと思うが女流ギターリストが堂々たる曲目をもってリサィタルを開いて居られた。
その君の名は川崎照子[*北澤照子]で、現在の日本音楽界の雄、小船幸ニ郎氏の令夫人である。

中野ニ郎先生は小越達也氏(赤松達也氏が奥様方に養子入りをされた後の姓) と共に太宰府の拙宅に来られたのが昭和8年[*1933年]頃であった。
何かお聴かせ下さい、と申上げたら、いきなり、君弾いて見給へ、と云われて恐縮した想出は今も身がすくむ感じである。

「ギター音楽」が中野先生や小越達也さんや、斯界の先覚者達により出版され始めたのもこのころである。
先般と云っても昨年のお正月の賀状で小船先生の書き添えがしてあって「ギター音楽」以来の長いおつき合いです……。
としてあったので小船先生や当時の川崎嬢も指導者層の有力者であった筈である。
私も小越氏に請求されて、ギターの楽器と絃の事を素人観の様な拙文愚稿で投稿した事を覚えている。

後に福岡市中の日本楽器にビラストロのギター用ガット絃が入荷したのも小越氏の注文によった。

私は早速購入してラコートモデルに張って使って見た。仲々よい音である。
表板の厚いラコートモデルであったから、音が切れる傾向があって物足りなかったが、これで漸くガットギターの様相が判って来た。
トルレスの形態もアルモ二ア誌によったり小越氏の研究によったりして、私は鈴木に注文した。
半歳ばかりかかって最初に出来て来たものは失敗だったが、改造して貰った分は、稍々良くなった。
併し低音が勝ち過ぎて一絃から三絃までのガット絃の音がボケてこちこちだった。
それでも力木も規定通り、型も原型の寸法で出来た「トルレス型のガット用ギター」と思って弾いてる気分が何とも云えなかった。
650ミリの大型の指板で充分指を開いてレッスンする苦痛は一歩一歩一人前のギター弾きに接近している苦しみの様で、内心楽しくてほくほくの気持で居た。

どうかして本場のコンサート用大型ギターが欲しいと念じていたところ、中野ニ郎先生と小越達也さんが、スペィンのホセ・ラミレス製のギターを注文されて十本ばかり神戸に入荷したそうで、船倉まで見に行かれて、現物を調べられたそうである。
その中の一本かニ本を中野先生が、小越さんが一本取られて私に見せられた。
私はその楽器が全々良く鳴るのに驚いた。
欲しいけれど最高のものが5、600円とかで、その頃の500円は現在の20万円位ではきかない筈だった。

福岡に転任されて、九大の法文学部に通学し乍らギター教授をしていた小越さんのお宅に、日曜毎に楽器をいじりに行くのを、唯一の楽しみとしていた。
暫くして中野先生がとてもよいホセ・ラミレスを購入されたので、小越氏にそれまでの中野先生の分を譲られて、私が小越氏の分を頂く事になったので嬉しくてたまらなかった。
代価は250円だった事を憶えている。

此頃から私の本業に対する身の入れ方も一層積極的となり、役職も多くなり会の代表としての出張等も増し、そのついでに地方のギター愛好家を尋ねる機会が多くなった。
けれども一体に、マンドリン奏者が伴奏楽器として一応ギターを練習したという程度の人が多くて本当のギター狂は少なかった。
何としても淋しくてならず同類を集めたい熱意ばかりであった。
私が生業に対する雄飛的野心も次第に強まり太宰府の地を後に現在の重工業都市、八幡に進出したのは昭和10年[*1935年]の暮であった。
然るに大変な不幸がここに待っていようとは予知す可くも無かった。

翌11年[*1936年]の9月8日に火災のため一切の家具計器から医療機械まで運び出す暇も無く、烏有に帰したのである。
二階の一番奥の部屋に大きな別製の箱にラコートモデルとトルレスモデルとホセラミレスは一緒に入れられていたものだが取出す事も不可能であった。
セゴビヤやギルエモ、ゴメス、其他マリオマッカフヱー等のものからリョベットの数枚までのレコード全部の外に文献類、楽譜等相当量のギターに関するものが灰になってしまった。
この時が私の生涯を通じて一番悲しい想出であり悪夢で#ある。

全くの裸ー貫となった私は、多くの借金を作って、土地を買いそれを担保に家を建て、又それを担保に医療器を入れ家運の復興に全力を注いだ。
翌年の昭和12年[*1937年]1月から診療を開始して再出発をしたのである。

こんな風に述べると読者には、私の自惚れが鼻つまみものと思われている事を感ずるが、実はその火災で長男を失い、代診の一人と看護婦を死なせ、私と今一人の代診は3ケ月入院の火傷を受けたのである。
それらの霊に対しても決死の再興を発念せざるを得ないのが当然である。

私は文字通り捲土重来の精神をもって医業に邁進し、医政の道の公益代表的役職にも尽した。
やがて自然に落着く所に落着いた立場を持たせて貰い安定感を得て来たので、日楽からピアノを月賦で入れヴァイオリン、マンドリン、ヴァイオリンセロ、も購入しギターもスペインヴァレンシヤの小型を入手して音楽と偕にある生活を体現すべく望んだ。

このころ漸く日支事変当時であって防護団編成が始まり警防団に発展し私の立場が職能代表であった為、色々の会合や集会に責任ある束縛が課せられた。
多忙を極めたこの時代はいわば私の人生に於けるギターのブランク時代であった。けれども時たま、稀に音を遠慮して弾奏するギターは熱砂中のオアシスの如く私の心を潤して呉れた。

大東亜戦の初めの頃には和製のコッピイカラーチェも買入れて居たが、この楽器は物によっては良く鳴ったのでギターを習いたいといって楽器の撰択を頼まれた時等、これをお世話申上げたものである。
多分材料に洋材を用いてあったらしく思っている。

いよいよ決戦酣わとなった19年[*1944年]初夏からは、家族全部田舎に疎開させ、私は書生と二人で頑張った。
洋楽器は遠慮しなければ都合の悪い時世であったので、押入れの中で武装のままひそかに弾いては、いつ訪れるか分らぬ戦災死の不慮を覚悟しながらも貴重な生命を慰めた。

終戦となって半年ばかり経つと、私達戦時中の役職者は追放となって、公職の全部から開放された。
やっと我に返った私だったが、しかし平価切下げや封鎖のためや、その他敗戦に伴う諸種の情況変化のため、それまでの患者地盤もすっかり別個の様相を態して私はすっかり新しく再出発となった。
けれどこの事は日本中同じ状態なので止むを得ない気持であった。
私の考えた事は生業の地盤の新開拓と云う世間並みの考えとギター音楽の発展策を講じたいという事であった。

十年以前に受けた大災難は本土決戦の覚悟の時も終戦直前の空襲の時も私を平然とした心境に安住させて呉れた尊い体験であった。
併し益々募るのはギターへの愛慕であった。
戦後の混沌たる反動的気運の中で、私の求めるものはギターに関する文献、レコード、楽譜、そして楽器であったが、それにも増して熱望していたのは、優れたギター奏者の出現であつた。
ある日私は博多に遊びに行った。

行きつけの日楽で聞き込んで訪ねたギターリストの家は市の郊外近くにあり、そ の人の名は吉田貞男さんであった。 昭和22年[*1947年]の新春正月と記憶する。

楽器については、その前の年の暮れに、小倉で入手したイタリーのエンベルガーの優秀なギターを持っていた。
当時の価格でその中古品が6500円で一寸驚いたが、高音部の音の冴えと遠達性が従来のどのギターにも無い飛び抜けた力を備えていたので少々無理をして購入した。

吉田さんの持っていた楽器は彫刻が表板までしてあって糸巻は人の顔であった。
大型で指板の巾は、ず抜けて広く珍しいものではあったが、音質は生硬で私は嫌いな楽器であった。
人の良い顔をした物優しい吉田さんは、私の訪問を喜んで色々の楽譜を見せてくれた。
レコードも殆んど全部持っていた。

日本にいて揃えられる一般的なギター関係のものは大抵持っておられた。
彼の演奏力については大変器用な方とは思ったが別段感心はしなかった。
門下生も数人おられて福岡地方では小越さんに次ぐ適当な教師であろうと思った。
小越さんは終戦間近かの決戦の最中に氏の宿癎であった胸の病が嵩じて福岡を引き上げられたのであった。
九大の法文学部を優秀の成績で卒業されて、教授から是非助手に残る様にと所望されたが、その方も、多くの門下生の惜別の引き留めも全部駄目であった。
郷里に引上げられる途中、私の家に寄られて自分の形見だといってイタリーのフエブラロの銘器を置かれて行かれたが、ほんとに可愛想で涙がとめどなく流れた。
苦しそぅな息使いで弾かれた曲はボンセの小さなワルツであった。

広島に落着かれる前に一時門司で途中の静養を採られ、訪問した時は次の部屋からの対談しか許されず、私は泣いて別れた。それきりである。
小越氏は「私はこんな病気だから一切、手紙は出しませんから御承知下さい。実は家内も悪いのです、」と淡々とした表情でしかもほほ笑みを浮かべて言っていた通り、私が何回お便りしても梨の礫で遂に他界されてしまったとの噂だけを門下生の方から聞いただけであった。

久方振り東京でその後数年たって中野先生に小越氏他界の事をお聞きした時は、彼は生きているんじゃないですか、と反問したけれど、三原町の曙書店に紹介したが不明であった。

福岡市のギター教授者はそんな次第で吉田貞男氏が有力な存在であった。
私は又もや吉田氏宅に毎週一回か二回は通ってギターの研究をさせて頂いた。
段々と彼の才能も判って来た。
彼は古典に対する深い欲求心は充分燃えていて、それに対する優れたセンスは持ちながらも、反動時代の波に逆らわずに行きたいという現実の状態に押されていた様だった。
彼と知り合って次の年、突如として吉田氏宅に参集する様に、という招電を受けた。

日本ギター界の第一人者、小原安正氏来福さるという事で私は診療を切上げて出迎えた。
着いて、恐る恐る部屋に入って二階を伺ってギヨツとした。
それは白面長髪の眼の鋭い一見、今様、由比正雪といった感じの美男が大型ギターを薩摩琵琶の様に縦に真直に構えて、物凄いスピードと驚くべきボリユームをもつて、半眼の状態で瞑想の時と活眼の時とを繰返しながら、間断なく弾奏しているのである。
私がこの小原氏から打たれた威圧される感じこそ、彼の持つ魂の本性を第一印象として受け取ったものと思う。
それ程小原氏はその体軀が日本人的に大ならざる割合には彼の斗魂は人並はずれて偉大なものであった。
小原氏を交えての第一回演奏会は、まことに記念するべき九州ギター界復興の黎明の序であった。
(続く)

[*転載]:digitalguitararchive/ギタルラ1959-06-No.20



『ギターと私の生活(8)』岩橋正和

小原安正氏が九州公演の皮切りをした場所は、福岡市の県教育会館であった。
これより先、私達は福岡ギター研究会の首班で、今は故人となられた吉田禎男氏を中心にして、ギター音楽の発展のために独奏と合奏の準備をしていた。
私は黒崎から毎週2回6時10分発の汽車にまに合う様に眼先にある駅に駆け込んで博多に通っていた。

[*転載]:digitalguitararchive/ギタルラ1959-08-No.21




『連盟九州地方支部結成 大きく発足す』

九州地方はギターの伝説を持つてゐる。
そして近来、益々優秀なる奏者、作家を生み、―つの勢力を為してゐるが、此度次の如く、大同団結し、本部の新発足と歩調を併せて大きく進むこととなった。

★現代日本ギター連盟九州地方部発足について声明

昨年8月、全國のギターを囲む人々の求めて止まざる欲求の結晶は此所に「現代日本ギター連盟」の歴史的発足となり、爾来、種々有益なる任務を果し吾々も亦、当連盟に負ふ処が非常に大きく、今や全く動かす事の出来ない存在となってゐる事は周知の通りであります。
九州地方部ほ此の「現代日本ギター連盟」に基づく事は勿論でありますが、多くの障害のため今日まで仲々具体化致しませんでしたが、去る七月、九州に御来演を願ひました小原氏より九州地方部の早期実現方を切望され、各地にその機運が起つてゐた矢先、去る8月31日及9月1日の両日に渉り、八幡市、岩橋氏邸に於て、岩橋、海田、橋ロ、京本、横尾の五氏に依り徹宵.具体案を練り、やうやく実現の運びになったものであります。
九州と言ふ地理的悪條件の下におきまして私逹は凡ゆる面に於ける不利不便を克服してこの「九州地方部」の発足を心から祝福し、更に大いに助長、活用して、私逹のギターを正しく学び、盆々盛んにすると共に、本格的ギター昔業の発展に寄興致しましょう。

昭和26年9月1日
[*発起人]
岩橋正和・海田真之・横尾幸弘・京本輔矩・橋口慶二

digitalguitararchive/ギタルラ1951-10-No.11/P.19


宮崎市の巻 前川正道

~<前略>~ 2.音楽分野となりますと、遺憾ながらいまだ芸域に達しておりませんが、さいきんでは各団体より音楽協会の設立を見、月1回は必ず一流演奏家を招待いたしております。
それも殆ど大半はピアノ、ヴァイオリン等に制せられてギターの音を耳にしますと、ジャズ、歌謡曲で一抹の悲哀を感じます。
以前と申し上げましても終戦直後ですが、手島震一郎氏指導の下に盛んであったらしいのですが、現在では酒匂 醇(さかわ じゅん)氏を中心に私ども3,4人の研究者を持っているにすぎません。
最近の演奏会では昨年10月京本輔矩、横尾幸弘両氏のリサイタルを始め、本年6月8月2回にわたって熊本の西野[西野 博]氏の演奏研究会を延岡市で催しました。
延岡市の場合は相当盛大なものでした。次回(来夏)は溝淵浩五郎氏招待の予定でおります。~<後略>~。



深川倣正氏(神戸)の8月17日佐世保の事は前号に紹介したが、8月13日には門司錦食堂ホールで西日本ギター連盟下関支部、門司支部、小倉支部合同、深川氏を迎えての会を開いた。
湯崎敬二氏の開会の辞、深川氏の「西日本連盟の結成と狩来の希望」に続いて自己紹介、夕食、座談会、小演奏会を開いた。

宮原信昌氏はセレナード(ヘンツェ)青春(シュナイター)
渡邊憲孝氏は練習曲(ソル)涙(ターレガ)山の唄(カルカッシ)巡礼の唄、残れる一匹の蚊(中野)
深川氏はワルツ(コスト)水神の踊(フエレル)西虹牙の徴風(フエレル)逝かなる夜の祭(チャヴァルリ)バナデロス(テルカス)を演奏。

1939-78-Armonia/P.33



[投稿] 九州・中国地方のギター界:溝淵浩五郎

私は去る8月16日から31日 まで、九州・中国方面へ演奏旅行に出かけてきた。
私は昭和18年の末頃から徴用のがれに学校の先生をやり出し、 それが癖になって某高等学校で教鞭をとつている(科目は国語)ので夏休が唯 一っの演奏旅行シーズンなのである。
先ず福岡県の行橋市で最初の演奏会を行い次に宮崎市で放送と演奏会を行い、それから山口県の柳井で演奏会を開く予定だった。
行橋市ではギターの愛好家である重松壮典氏のお世話になり、海田氏の賛助出演のもとに無事盛会裡に幕をとじることが出来た。
宮崎では前川正道氏と酒匂氏のお世話になり、宮碕市はもちろん、青島、鵜戸神社等の絶景を見物させて頂き、放送も会も無事に終え、「これも末熟ながらギターの一徳」と喜んだ次第である。
ところが大分県三重町の麻生律男先生(この方は耳鼻科の先生でありながらギター研究家で多数の門下生の指導をしておられる中々立派なギタリスト)からの速達に接し、是非三重へ来て講習の如きものをしてくれとのこと、私もギターの普及のためと喜んでそちらに伺って熱心な研究家達のために色々と奏法などの話をおきかせした。
ところがそこに熊本市のギターの大家西野博氏も居られ、是非熊本でも、とのこと熊本にも伺い、水前寺や熊本城を見物させて頂き、夜、同氏の門下生の方々にギターの奏法などのお話をした。
それから、行橋から私にギターを学びながら一緒について来てくれた青年ギタリスト井上博雄君の住む久留米を訪れ、大宰府を拝ませてもらい、柳井へ向った。

その間感じた事だが九州のギター界は実に高い、聴衆も本当の古典ギターの音楽を聴くことを望んでいる。
若しもアンコールにアルゼンチンタンゴのようなものを奏けば、九州を田舎扱いしたと怒られてしまう。 そればかりではない。単なる左右両指の動く、いわゆるテクニッシャのギターなど評判が悪く、問題にしていない。
聴衆はギターの美しい 音と、 音楽を欲している。
この点、東京に負けていない。 それから九州ギター連盟のような横の連絡も出来ていて熱心に斯界の向上につとめている。
今後九州を訪れるギタリストはこの点に注意してゆくペきである。
柳井では古川昇氏のお世話になったが、ここは古賀ギター協会の柳井支部であったので流行歌もやっていた。
しかし古川氏の努力で純然たる古典ギターも隆盛になるだろう。

広島、岩国にも立派なギタリストが居るそうである。 東京のギタリストは地方を軽視出来ぬ情勢にあることに注意しなければなない。 それからこれは余談になるが、熊本の西野氏が 「近頃は コンク ールばやりですがこれは考えものです。入賞でもすると素質もないくせにすぐ専門家になりたがったり天狗になったりします。」と云われたが、私も同感、余程の素質と境遇に恵まれない限り、めったに専門家になどなるものではない。
財産でもあるか、余程商売上手でないと、生活にすら困ってしまい、女房に喰わせてもらうようなみじめな結果になってしまう。
これは東京のギタリストも地方のギタリストも共に注意すぺきだろう。
以上

1957-26-ギターの友/P.32



[読者のページ] : 大分県三重町:麻生律男
溝淵浩五郎先生をお迎えしての記8月19日福岡県行橋市にて、22日宮崎市にて先生のリサイタルがありましたが遠方で聴きに行く事も出来ないので宮崎の帰途大分県にお寄り願つて一夕を楽しく過ごすことが出来たのは何より幸いでした。
会する者熊本市から西野、田辺両先生、それに大分県の同好会のメンバー8名、三重町の私の宅で会員各自の演奏やら、質問やら。最後に溝渕先生のシュターフェルで演奏をして戴きました。
滅多に中央のギタリストに接する機会がないので、会員皆耳をそばだてて、先生の演奏に聴き入りました。
皆思い思いに何等かの収獲を得たものと考えられます。
丁度10月始めに九州のギターコンクール(第三回)も開かれますので課題曲のコーチもして戴き、大変参考になった事でした。
その時感じました事を私なりに記してみたいと思います。

その時先生ともお話したのでしたが、地方でギターを学習している生徒が色々の疑間のある場合、師事している先生に質問するなり書物をあさるなりするわけですが、どうしても事大思想と申しますか近くの坊主の説教より遠くの坊主の説教と申しますか、やはり東京の方々のお説を無条件で信ずる様になるのです。
ですから東京の方々はよほどしっかりして、十分に自信のある正しい事を教へてくれないと、飛んでもない結果を生む事になるのです。

おしかりを受けるかも知れないが、まだまだ日本のギター界が世界のギター界に比ペてそれ程進んでいるとも思はれません。
生半可な先生も可成り居ると思はれます。
それが東京に居ると云うだけの事で生半可なことを地方の学習者に教へてもらっては困ると云うことなのです。

九州の第1回のコンクールの時に妙なその時先生ともお話したのでしたが、地方でギターを学習している生徒が色々の疑間のある場合、師事している先生に質問するなり書物をあさるなりするわけですが、どうしても事大思想と申しますか近くの坊主の説教より遠くの坊主の説教と申しますか、やはり東京の方々のお説を無条件で信ずる様になるのです。
ですから東京の方々はよほどしっかりして、十分に自信のある正しい事を教へてくれないと、飛んでもない結果を生む事になるのです。
九州の第一回のコンクールの時に妙な弾き方をする人が数人居たので不審に思ってよく調べた処東京のあるギタリストに教えられたと云う事。
妙にテンポを崩してハッタリ的に弾く事が芸術的表現なりと考えたらとんでもない事です。
センスの低い学習者は鵜のみにのみこんでしまって、あられもない音楽をつくり出すのです。
こんな意味で責任のあるハッタリのない真面目な態度を要求するわけです。
溝渕先生のお話を承って、叉演奏を聞かせて戴いて、先生の真面目に音楽を追求していられる態度に感心した一人であります。
勿論細部にわたっての事については多小疑問はありましたが、それは別としまして、ハッタリのない、高い音楽的センスと、真面目さは我々の大いに学ぶぺき事だと信じました。
小手先きのテクニックで、フィンガーマシンの様に小器用に指の動くのを得々とし、又それに拍手を送る人々の以って頂門の一針とすべきだと考へました。先生の御多幸を祈り、日本ギター界の為に長く御尽力あらんことをお願いして筆をおきます。
[*転載]:digitalguitararchive/1957-26-ギターの友/P.46



第1回九州ギターコンクール 1955年10月16日

第1回九州ギターコンクール

[*前列左より]:松本憲一(事務局長)・橋口慶二(審査員)・湯崎敬二(顧問)・岩崎正和(会長)・春 享一(3位入賞)・西牟田 博(1位入賞)・山本信治(2位入賞)・西野 博(審査員)・岡田順介(審査員)・今井政久(審査員)

1955年10月16日 教育会館(福岡市)
[審査員]:岩崎正和、湯崎敬二、橋口慶二、西野博、今井政久、岡田順介
[課題曲]:ターレガ作 アデリータ

[入賞者]:
一位 西牟田博(1931年9月6日生)アストリアス アルベニス
二位 山本信治(1933年1月10日生)ファンダンギロ トロバ
三位 春 享一(1931年2月11日生)アラビア風狂想曲 タレガ
次点 堀江吉夫(1924年10月10日生)メヌエット(11の6) ソル
参加者:23名

1955-04-ギターの友 P.5

第2回九州ギターコンクール-ギターの友社杯 1956年10月7日

第2回九州ギターコンクール-ギターの友社杯


1956年10月7日 於 大牟田市民会館
日時・1956年10月7日 9:00(予選) 13:00(本選)
場所・大牟田市民会館



第2回九州ギターコンクールの感想と私見 九ギ同会長 岩橋正和
去る10月7日第二回九州ギター音楽コンクール を、有料公開にて大牟田市の市民会館に於て開催致しました。
各県よりの参集者の内遠くは6時間乃至10数時間の遠距離の為、前審査員は全負8名とし大牟田に同宿して協議会を開きました。
今回の夜より来宿し審査員並びに幹部は前晩より大、内4名は一般音楽の歴廿指挿者や権威者にお願い致し、残り4名は楽年以上のギタリストを以って振り当てました。
之に依って公正なる審査結果を期待致しました 。

今回は前回以上に全国の諸先輩や各団体よりの御声援を頂きました。
特にギターの友社からは華麗なる優勝大カップを御寄贈賜わりましたことは、一面出場者の気迫に拍車をかけられたばかりで無く、大会に意義ある威容を添えられたものでありました。
又仙台アルモニア誌からはテデスコの珍しい作品を各入賞者に贈られまして、光輝ある記念賞となりました。 更に日本ギター教授者協会からも副賞のご配意を頂く等、全国各位のご温情に抱かれて開会の幕を上げることができました悦びをここに厚くお礼申し上げて置きます。
七日午前九時より市の建設会館に於て欠場者3名を除く21名の予選を、課題曲。パバーナ(タルレガ)に依って開始しまして、本選出場者8名を正午までに決定いたしました。
公開演奏の市民会館においては午後1時より数種の第3回九ギ同大会演奏を皮切りに、第二回コンクール本選を自由曲のみに依って決選に入りました。
之には予選の課題曲の成績点数を採算して週末成績といたしました。


第一位
西条道孝 (福岡県小倉市在)

第二位
藤井利生 (大分県臼杵市在)

第三位
朝倉年春 (福岡県大牟田市在)

第四位
西牟田雅人 (同大牟田市在)
以上4名が入賞致しました 。
~<中略>~
今回のコンクールの感想を述ぺますと、服装と態度がずつと良くなり、楽器も全部本格と理論の勉強を的なものばかりでした。
そして皆相当に技術している状態が現はれて居りました。
今春阿部保夫氏により九州各地区指恋者の七ゴビヤ奏法講習会を致しまして以来末だ数ヵ月ですが、音色第一の重要さと音楽解釈に理論方面の研究をしている様子が演奏に出て来ているのであります。
併し之は音色追及と解釈探究の態度が、第一回に比して格今回の出場者の中段の進歩が見られたと云う結論でありまして、優秀者でも勿論懸命だったのでしようが、多くの方は現在目下悪戦苦斗中と云った姿であります。
~<後略>~。

[*転記/*出典]:digitalguitararchive/1956-16-ギターの友/P.17


1957年10月6日(日) 第3回九州ギターコンクール

第3回九州ギターコンクール


1957年10月6日(日)
日時・開演:1957年10月6日(日) 課題曲:ソル作曲ロ短調「エチュード」
場所・福岡電気ホール

第1位:藤井利生[大正6年7月28日]:大分市
第2位:恵良賢次(西条通孝門下)[大正10年1月13日]:小倉市
第3位:村上岳男(西野博門下)[昭和13年11月27日]:熊本市
次点:今井恒太(坂本八千代門下)[大正4年12月31日]:福岡市

審査員:????



第4回九州ギターコンクール 1958年10月5日

1958年10月5日 (福岡市中央公民館)
第1位:今井恒太(福岡)
第2位:恵良賢次(小倉:西条通孝門下)
第3位:朝倉年春(大牟田)
次点:田辺 進(熊本)

審査員:中山太郎・麻生幹夫・坂本三郎・岩橋正和・松本憲一・湯崎敬二・麻生律男・西野 博

1957-27-ギターの友 P.48/1958-39-ギターの友P.14





1959年5月25日 アンドレス・セゴビア 氏を迎えて

 1959年5月25日 アンドレス・セゴビア 氏を迎えて

[セゴビア先生のことども] 山田由之助
去る5月25日福岡空港に古典ギターの第一人者セゴビヤ先生を九州ギター音楽協会の会員の方々とお迎えしました。
協会の顧問として名誉ある通訳の栄た負い3日間親しく先生の人柄に接し、云の芸術観、人生観等を拝聴して全く尊敬の念を深くしました。
セロのカザルスと共にスペインの国宝的存在であることを再認識しました。
私はメキシコに18年も居住して、ほんの少しギターを習い辻音楽士、旧台音楽士等無数のギターを聞いて来ましたがセゴビヤ師のをきいてほんとうにびっくりしました。
ギターはこの人によって生命を得て感がします。
恐らくギターファンが私の様な感じをうけたのではないかと思います。
椰子の葉かげで、夕月を背に、夢の中にさまよってる様な気分で、常夏の南同で音楽を楽しんでる姿は実にうるわしいものです。
ラテンアメリカ諸国ではギターは庶民の楽器で貧しい家にでもこの楽器はあるのです。
先生の古典ギターはその深さ、消さ広神秘的なあの施律と共に絶対的なものです。
25日夕食を御起走になり、色々の話しが出ましたが、その後ホテルの一室でギター(先代ハウザーの作になる名器) を見せていただきましたが、その時に思いがけなく、先生はすっと起ちあがって月光の曲の一部を、眼を細くして、しづかにひきはじめられました。
私はこの楽聖の神技を目前に見て忘然自失の状態にありました。この惑激は筆舌で表現出来ません。
その夜は協会の岩橋会長さんとつきぬ杯を傾けました。
先生は真実の人、やさしい人、努力の人、まことに楽聖の名にふさわしい人柄です。
サイン攻めの多いので、おつかれのことと思い、後で一まとめにしてお暇の折していたゞこうかと申しました所、自分は紙にサインするのではない人にサインすると云はれた時、叉深い惑銘を感じました。
そしていまだノーと云われたことがないそうです。また不正に対しては決してイエスと云わぬと申されました。
まだ今まで。ハスボートや荷物の検査を受けられたことがなかったそうです。
先生が世にもまれなる正しい人だと云うことになってるからでしょう。
毎夜就寝は12時過ぎ、そして朝食夜は12時まで読書瞑想に過されるそうです。
気まぐれの贋芸術家の多い世の中になんと気持のよい話しではありませんか。
約束を必ず実行されるのも先生の徳行の―つです。

岩橋会長が東京で先生の大好物の天ぷら屋に招かれたので、その答礼としての御招待だったのです。 その時I氏が先生の額の皺とたづねたら、毎夜の瞑想がこの皺ををつくったのだろうと云って居られました。 今日の世界的名声のかげには先生の絶えざる努力がひそんでいるのです。

”Me costo mucho trabajo"『ここまで来るのに大変苦心した』と何度も言われました。
恋愛は人間に必要なものであるが度が過ぎると禍になると申されました。
アルゼンチンで白内症の手術をなさった時、一少女が両眼を捧げ、先生の眼を救いたいと申い出た時、うれしくて、心から泣かれたそうです。

戸畑市のギタリストY氏の令妹(戦争犠牲者)貧しい中から貴重な日本着を二着、贈呈したいと申し出られましたが、ただ一着だけいただくと云って断じてニ着は受けられませんでした。
そして”Estoy muy coumovido." といってひどく感動された様です。 金銭観も氏の人格の一端をあらわして居ます。
私が先生は金つかいが荒いそうですがと申しましたら、金は正しく使うものだと淡々と云って居られました。
市内をお伴して、少さい買物をされましたが、そのつど、自分で払われて、私達が出すのを断わられました。
古都京都は先生にとって、美わしい心の故里らしく思われます。
大阪より来られたO氏(フェスティパル協会嘱託)に何度もなぜ京都でコンサートをやらぬかと不平そうでした。
ニューヨーク、東京よりも、先生にとって最も心の落着く所は京都なんでしょう。
新聞記者会見の時も京都の優雅な美について強調しておられました。
日本婦人の和服姿は最も美わしいものの一つだと云って居られました。
又日本女性のしとやかさも先生の心に喰い入ってる様です。もう少し若かったら、親友カサードの二の舞をやりたいと笑って居られました。
六尺豊の巨体、白い柔い大きい手、その温顔、古淡そのものの老大家の容姿に接するものはだれでも、異口同音に感嘆の声を発するでしょう。
技をみがくことも勿論必要だが、音楽はその人の人間性の再現である、人柄が出来ねばその音楽も光りはでぬと断言されでした。
6月3日神戸の演奏会を最後に空路スペインヘ向われます。
ついでに.パリー、ロンドンのコンサートをすませて、スイスの御令息の家で休養して、故郷の土を踏まれます。 明年1月までマドリード御滞在の予定です。
2月に再びニューヨークに帰られ、それから中南米の長い演奏旅行です。身心のおつかれる程うなづけます。
先生は非常に養生家で節制されますが何といっても、もう66才.(1893年2月21日生)のお年ですから、先生の御健康を祈るや切なるものがあります又2,3年中には必ず来ると申されましたので実行されるでしょう。
その日をみんなで首を長くして待ちましょう。
(投稿・筆者は九ギ協顧問、スペイン語教授)

[*]:1959-46-ギターの友/P.32-33




第5回九州ギターコンクール 1959年10月4日

1959年10月4日 (福岡市電気ホール)
第1位:真名子真
第2位:栗本純江
第3位:井上博雄
次点:甲木俊之
努力賞:小川潤子・佐藤栄太郎・菊入亮吉

(主催:九州ギター音楽協会、後援:日本ギター教授者協会)
[審査員]:安永武一郎・伊藤俊男・岩崎正和・松本憲一・西野博
[課題曲]:ターレガ作 ラグリマ
[*参照]:1959-06-05-Armonia P.19



GUITAR



岩橋正和
岩橋正和

岩橋正和 [Iwahashi Masakazu]


西野 博
西野 博

西野 博 [Hiroshi Nishino]

[雑感] 西野 博
毎年の事乍ら正月には床の間に楽器を飾り型ちばかりのお鏡を供えて今年もよろしく願います。と云う気持で元旦を迎えるのですがどうも一向にウマクなりません。
九州で阿部保夫氏の講習があってから、もう半年も過ぎましたがちっとも変っていない様な気がします。
40に手がとどく様になってからはどうにもこれ以上仕様がないのかもわかりません。
この間も或る人と話合ってもう我々には限界が来たのだろうと笑合ったもんです。
まだそんな年ではないと思い乍らも、現在の20代の人逹の躍進ぷりを考えると、全く驚くばかりです。

何もかもギター奏法でわからない事がないまでに解明し尽されている今日とは云え我々のその頃とは何か違ったものが有りそうです。
4、5年前まではギターのギの字も知らなかった人が、今では私などの手に負えない程になって来ています。
荒削りの溌剌とした演奏にこんな人が40,50になったらどんなになるだろうと楽しみでもあり、羨ましくもあります。
年を取った人の中にはまだまだ音楽としてなら彼等にひけを取らない、と云う人があります。
そう云う人逹から見れば、若い人逹の演奏が技巧だけに頼って弾いている様に見えるでしよう。又味がないでしよう。
テクニッばかり先走って音楽以前だと云うわけです。しかし私はそれで良いのだと思っています。
20代の人に50代の人の感覚で演奏を強いても無理ですし叉出来たとしても何だか取って付けた様な変なものになるでしよう。
先日イギリスのジュリアソ・ブリームをラジオで開きました。
文句なしに素睛しい演奏で、この人がセゴビア位の年になったらどんな大家になるだろうと思ったのですが、何気なくそう思った事は、その素酌しい演奏に矢張り彼の若さを感じたのかも知れません。
勿論弾く事だけでなくて音楽としての勉強を怠る事は出来ません。
音楽と云う奴は我々が一生を費してもわからない程神秘なものの様です。

しかしわからないまま一生を終つても、それに向つて進んで行く努力は決して無駄ではないと思います。
だから人から音楽性がないとか何とか云はれてもかまいません。
そう云う努力を続けて行く内に音楽は勿論、それ以外の事からも多くの事を無意識の内に勉び、歳と共に人間が完成され、やがて蓄積されたそれ等の知識がその後の演奏に輝やかしい成果を上げる事でしよう。
演奏家は先づ弾ける様になる事が第一です。そして真面目な生活態度で人間性をみがく事です。
放漫なそして虚偽や嫉妬に演ちた生活からリッパな音楽が生れるはづはありません『セゴピアの演奏は甘い』などと言う人があります。
我々には無条件であるセゴピアの演奏をも矢張り色々云う人があります。
しかし30年程も前にSPに録音した曲と今日LP に吹込まれた同じ曲を比べてごらんなさい。
今日の彼の演奏が円熟の極致に逹し、そして人間としての完成がハッキリ読みとれます。
ギターはビアノやヴァイオリンに比べて、むづかしいと良く云はれますが、ステーヂでそのつもりで開いて下さいと断るわけに行きませんし、聰いている人も他の楽器と同じ期待をもつています。
むづかしいからこそ他の楽器より以上に練習が必要です。
そして先づ弾ける様になる事です。
色々と思いつくまま生意気な事を申ましたが私も今年は一奮発して門下生に尻をたたかれない様頑張るつもりです。
では皆様の御発展御健康を祈ります。今年もギターにとつて良き年であります様に。

[*出典]:digitalguitararchive/1957-18-ギターの友/P.18



西條通孝
西條通孝
[*挿画出典元]:『写真で見る日本ギター史』1992年3月30日初版発行
発行所:現代ギター社/安達右一・監修【GG番号】GG090

西條通孝 [Michitaka Saijo]

[1934年3月30日 - ?? ]
小倉市在住
近藤敏明門下

  • 第2回九州ギターコンクール第1位入賞

京本輔矩
京本輔矩
[*挿画出典元]:『写真で見る日本ギター史』1992年3月30日初版発行
発行所:現代ギター社/安達右一・監修【GG番号】GG090

京本輔矩 [Sukenori Kyomoto]

1929年(昭和4年)1月24日生(門司市) 
1946年(昭和21年)頃より,門司市の湯崎敬二氏に師事する。
1949年(昭和24年)より小倉市における小原安正氏の演奏を聴いて以来、影響を受ける。
1951年(昭和26年)10月  上京し、小原安正氏に師事する。
1951年(昭和26年)12月   「第3回ギターコンクール」にて九州代表として、第1位を獲得する。
1957年(昭和32年)??月  京本輔矩 第1回独奏会 東京
1957年(昭和32年)6月   京本輔矩・横尾幸弘ジョイントリサイタル 東京大学講堂
1958年(昭和33年)4月21日   京本輔矩リサイタル 山葉ホール
1960年(昭和35年)5月11日  京本輔矩ギター独奏会 山葉ホール
1965年(昭和40年)5月  京本輔矩ギター独奏会 東京文化小ホール
1966年(昭和41年)5月30日  京本輔矩ギター独奏会 東京文化小ホール
1966年(昭和41年)6月6日  東京ギターアカデミー教授演奏会 ヤマハ・ホール
1966年(昭和41年)12月5日  京本輔矩門下発表演奏会 東京文化会館小ホール
1967年(昭和42年)2月22日  横浜交響楽団定期演奏会(指揮小船幸次郎)ビラロボス作曲( 1951 年作)セゴビア献呈ギターコンチェルト(本邦初演)全3 楽章(イ短調)ギター京本輔矩   神奈川県立音楽堂(横浜)
1967年(昭和42年)6月2日  東京ギターアカデミー教授演奏会(第8回)文化会館小ホール
   1968年(昭和43年)11月21日  京本輔矩門下演奏会 日仏会館
  1969年(昭和44年)4月21日  京本輔矩門下演奏会 日仏会館
1969年(昭和44年)10月20日  京本輔矩門下演奏会 日仏会館

[*転記]:ギター日本[1966-1970]

横尾幸弘
横尾幸弘

横尾幸弘 [Yuquihiro Yokoh]

横尾幸弘 Yuquijiro Yokoh
[ 1925年(大正14年)~2009年12月(25日) ]

1925年(大正14年)  大分県日田市川原町の横尾紙店で7人兄弟の3男として生まれる。
1947年 10月25日  横尾幸弘独奏会 於 隈会館(日田市)
1950年(昭和25年)   上京。
横尾ギタースタジオ
グループ・キョーオン結成[小原二郎・大沢絆・京本輔矩・横尾幸弘]
1956年  渡欧
1957年(昭和32年)6月22日  京本輔矩・横尾幸弘ジョイントコンサート 東京大学講堂
1959年(昭和34年)    初版「さくら変奏曲」を発表。
1961年(昭和36年)9月5日  横尾幸弘ギタースタジオ発表会(東京)
1966年-1970年  『ギター日本』: [ギター日本社創刊]、の表紙を揮毫(きごう)。
1966年11月24日  横尾幸弘ギター教室ギター合奏の夕べ 全逓労働会館
1967年5月12日  横尾幸弘門下発表会 全逓労働会館
1967年5月31日  横尾幸弘ギターリサイタル 東京文化会館小ホール
1967年7月9日   横尾幸弘ギター演奏会 浜松市民会館(浜松市)
1968年12月1日  横尾幸弘ギター教室の夕べ 日仏会館(東京)
1969年2月26日  横浜交響楽団239 回公演 神奈川県立音楽堂 ギター協奏曲(イ長調)ヴィヴアルディ
ギター:横尾幸弘 指揮:小船幸次郎
1969年7月31日   「日本ギタリスト協会設立」に伴い、第一回より新人賞選考演奏会の審査員を務める。
1969年10月9日   横尾幸弘門下古典ギター発表会 全電通労働会館(東京)
1969年11月4日  横尾幸弘ギター教室ギター合奏の夕べ 日仏会館(東京)
1986年(昭和62年)より 現在の住まいに移る。妻と次女夫婦、2人の孫と生活。

[*転記]:ギター日本[1966-1970]

坂本八千代
坂本八千代
[*挿画出典元]:『写真で見る日本ギター史』1992年3月30日初版発行
発行所:現代ギター社/安達右一・監修【GG番号】GG090

坂本八千代 [Yachiyo Sakamoto]

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